救命病棟24時最終回


 早かったです。全7話って。内容も薄かったし・・・・・おもしろくなかったです。おまけに、CMがいらいらさせるほどに割り込んでくる。いいところで、コマーシャルになるとかそういう次元じゃない。常に10分おきくらいに入る。
 何ていうか、視聴率がこの夏で一番いいドラマだから、どこもコマーシャルを入れたいっていう意思がひしひしと伝わってきて、いらいらしましたね。さすがに、コマーシャルの商品を買わないでおこうとまでは思いませんでしたwwそれだけ、必死だということですからね。
 それに対して、コントで1000万の番組が裏でやっていた・・・・あれはもう、そのコマーシャルの商品を買わないでおこうと思いましたね。馬鹿らしい。なぜあの企画が通り、賛同しようという企業がいるのか。ミリオネアとかも嫌いですね。何がしたいのかさっぱりわからない。いや、わからないというか、視聴者がなめられてるとしか思えない。こんな番組を作っとけば、視聴率が取れると思われているということと、それに納得して広告費を出す企業。この両方になめられているんですよ。そんな風には思いたくないですけどね。だから、私は基本的にブームが嫌いだったりします。
 話は変わりますが、ちょっときつい言い方をしますが、あのコントの番組を見て、何も感じない人は頭が悪いです。それは別にどんな感じ方であってもいいんですよ。1000万という賞金を出すだけの価値がある番組を作ることができ、それだけの広告効果があると見込んだんだろうとか。肯定的であれ、否定的であれ、どういう仕組みであの番組が成立しているのかとかそういう考えをもてない人は、生活の中で何も学べずに生きているのではないかと思う。
 人間が成長をしようと思ったら、疑問に思うこと、興味を持つこと、そして知ろうとすることですよ。

2009年秋期(9月期)アニメ


2009年秋期放送開始の新作アニメ一覧 - GIGAZINE

 来期見るものが・・・・・あるのか?ものすごく不安だ。かつてないほどに不作だと思われる・・・・

 WebNewtype - アニメ情報誌「月刊ニュータイプ」公式サイト

 このアニメの原作を、そんなにおもしろいのか、しつこくアマゾンでおすすめしてくるww読んでないけど、興味があったので、見てみようと思っています。

 マーベラス公式ウェブサイト - MARVELOUS!

 あと、これはエロゲ原作で、見たことはないのですが、おもしろいらしいので、何話かは見てみるつもりです・・・・・が、おもしろくなければみないです。
 あとは、評判をうかがいながら見るくらいですか・・・・

 ・夏期のまとめ

 化物語がやはりおもしろかった。ただ、最近は手抜き過ぎww全然動いてないし・・・ひどいですね。まぁ、後半失速するのはシャフトではいつものことですけどね。咲とハヤテのごとくは好きなので良かったです。
 それはいいとして、大正野球娘がおもしろい。なぜかおもしろいです。ネットで遡って見たんですが、良かったですね。久しぶりに野球アニメを見ましたww話自体もあっさりとしていて、一話完結です。野球アニメだけど、そんなに野球っぽくないあたりが良かったのかもしれません。でも、割と野球はしているみたいなww構成がしっかりしているんですよね。こういうアニメを見たい。まぁ、何といいますか、この構成って恐らくテレビドラマのそれなんでしょうね。長年やってきた結果、ここにたどり着いたという構成なので出来はいいのでしょう。これでいいのか悪いのかはわかりませんが・・・・
 
 

民主の大勝利でしたね

 300議席を超えましたねぇ・・・さて、どうなることやら。色々な思いで多くの人が投票されたと思います。自民が嫌になったからというのも一つの大きな理由でしょう。自民に対して個人的に敗因を考えてみるなら、やっぱり国の将来像を描けなかったことじゃないでしょうか。今の不景気をどうこうと思って自民が嫌いになったと判断した人がたくさんいるとは思いたくないですね。景気だけに関して言うならば、自民はよくやっていたと思います。ただ、目先のことにとらわれすぎたんじゃないでしょうか。結局、国を支えていく若い世代の人間に反発されるようなことでしか景気を回復できなかったし、出生率もあげることができなかった。これじゃあ、誰もが不安になって当然ですよ。中間層の人ですら、不安になるし、ひょっとしたら、高所得者も不安になったかもしれない。自民党がやってきたことは、正しかったかもしれないが、それ以前に国をまとめられなかったということでしょうか。
 民主になっても、財政が苦しいのは変わりませんから、増税ということになっても仕方がないでしょう。ただ、民主党には国民に将来を描けるような政策を持って、結果をだしてほしいと思います。経済は魔物です。そればかりに気を取られて失敗した自民の教訓を生かして、頑張っていただきたいと思います。

救命病棟24時の世間とは違った楽しみ方

 このシリーズは私もおもしろくて、ずっと見てきています。なぜ惹かれるのか、これまでわからなかったんですが、先日ふと気づきました。それに関して、私の言いたいことを書きたいと思います。
 なぜ私が救命病棟24時をこれほど好きになったのかに気づかされる原因となったのが、とある若者が自分の夢を語っていた記事です。普段なら絶対に読まないんですよ。なぜなら、たいていの場合、自分を犠牲にせずに夢を語るからです。察しの良い方あるいは、同じように思っている方にはもう私が何を言いたいのかわかってもらえたかもしれません。
 つまり、私は若者が夢を語りつつも、一方で遊びまわっていることに対して怒りを感じているわけです。「私は医者になりたい。でも、遊びもたくさんしたい」・・・・意味がわからないと、そう感じてしまうんです。私も人に言えるほど、ずっと頑張って仕事をやっているわけではないですが、大きな夢を語るためにはそれだけの努力が必要であり、その算段を含めた上で、自分の人生を見つめてはいるつもりですし、少なくともあれもしたい、これもしたいとは思っていません。当然、時間は有限であり、あれをすれば、これができなくなるということはよくあることですし、お金にも限りがあり、できることに限りがあります。そして、あれを選べば、これを選べなくなるという人生の選択肢を皆がすでにいくつも超えてきています。
 その選択肢を超えてきたはずの人間が未だ、そのことをわかっていないのです。何も私は自分の限界を知れとは思っていません。努力をすれば、それだけ人の可能性は広がるわけですから。ただ、努力するにも時間をかける必要があるのだとなぜわからないのかと思うです。
 私は、それらの人を見て悲しくすらあります。業の深い生き物だなぁと・・・・そして、うまくいった人に対しては、今回は運が良かっただけだから、それをちゃんとわきまえて、今を持続させられるように気を引き締めてほしいと思うし、うまくいかなかった人に対してはそれが当然だから、もっと頑張るか分をわきまえるかどっちかにしたらいいのにと思うのです。
 そもそもなぜ、そう思うのかといえば、誰もが幸せであってほしいと思うわけで、高く望みを持ちすぎることは大きな沈みを生むわけで、裏づけのない高い望みを持つことは何より無謀であるからです。

 話をここで、救命病棟に戻すと、このドラマはこの私の心理を本当に巧みについてくるのです。主人公である江口洋介こと進藤先生は、第1シリーズで妻を亡くし、第2シリーズ以降で医者としての人生に自分をささげて生きます。まず、単純にこの献身的な姿に胸を打たれるのです。そして、この進藤に対して松嶋奈々子演じる小島先生が、進藤とは対極の存在として出てくる。つまり、あれもしたいしこれもしたいという若者の存在に近い形で絡んでくるのです。第1シリーズでは研修医として、第3シリーズでは救命医として活躍しつつも、結婚もしたいという位置づけです。小島先生は進藤の姿にあこがれつつも、自分の道を見つけようとあがき、一生懸命に頑張っている。そして、結局は進藤と同じような道へと運命に逆らえずに歩くことになる。その姿にもまた胸を打たれます。
 私が憧れる二つの人生を見事に調和させたドラマがこの救命病棟24時です。巷で言われているような評価ではなく、この二人の位置づけ、そして、この二人から通して見える私たちがどう人生に向き合って生きていくのかという点を教えてくれるこのドラマシリーズは本当におもしろいです。
 第4シリーズでは、一度救命医を止めた松嶋奈々子のポジションが非常に重要なものを担っていくこととなると私は思います。それはつまり、未だくすぶっている、これまであれもしたいこれもしたいと思ってこなかった比較的若い人たち、あるいはあれもしたいこれもしたいと思い、失敗した人たちにとって、とてもためになるドラマになるのではないかと思います。人生に疲れた人、ぜひそういった視点で見てみてください。

 
 

財源問題に思うこと


 今度の総選挙の各党のマニフェストについて、財源が大きな問題になっているということですが、私も思うところを書きたいと思います。

 以前から、私が何度かこの場で言ってきていることではありますが、20代の若者の立場から言わせてもらうと、ちょっと媚を売りすぎです。景気悪化とか言って、どんどん将来に負債を伸ばしている。それが納得いかないのです。景気が回復しないことには、どうにもならないとか言ってますが、実は隠しているだけなんじゃないのかなと思うんです。つまり、若い人はもはやこれ以上に必要とされていないと。一部では確かに将来を見越して、きちんとした労働力として考えられていますが、大多数がただの機械的な労働力としかみなされていない。どう考えてもそういう結論になるんですよね。だって、高額の給料を持っていく50歳代が今、一番多い時代に、若い人のことが考えられないということは、そういうことですよね。自分たちの給料を削って、若い世代を一人でも多く雇うとか、給料を上げるとか、そういうことがないんですから。絶対に二の次ですよ。先が長いから、どうにでもなるだろうっていう考え方なのかなと思いますね。

 さて、そんなことを思う私は、財源問題に関して、意外にも別に気にする必要はないかなと思うんです。少なくとも、定額給付金よりは有意義ですね。確かに、将来に負債を残すことになるんですが、今回ばかりは、比較的若い世代のためのものが多い気がする・・・・気がするだけかもしれませんが。
 でも、本音としては、こども手当ての増額なんかは、もう10年くらい前にやっていないとおかしい政策ですよね。日本の出生率はどれだけ低下しているんだと。言っていいですかね・・・・馬鹿じゃないかとww頭おかしい・・・狂ってるとしか思えない。どれだけ時間がかかってるんですかね。たった、これだけのことをするのに・・・
 出していいお金と出してはいけないお金があるんですよ。そして、どのような状況下においても出していいお金っていうのはあるんですよ。それが、将来の負担を軽減するためのお金ですよ。企業じゃないんですから、よほどのことがなければ、赤字を数年出そうが国が潰れることはありえないわけですよ。それは現状が物語っているわけです。政策の効果の問題はあるでしょうが、少なくとも、現状を何とかするだけの政策よりはましですよ。たいていの場合、将来の負担を軽くする政策というのは、現在と未来の両方に影響を与える政策がほとんどなんですから。
 ちょっと別な方向から話をしましょう。一億円があったとして、これを将来のために貯蓄していると、確かに増えます。でも、これは実際には銀行なりが運用して一億円以上の価値にして増やしているのです。しかし、現在では運用がうまくいかず、ただ一億円をもっているだけの状態です。将来のためを思って貯蓄していた一億円は一億円のままにしかならない。当たり前の話ですが、当たり前じゃないんです。
 一億円を何かを買うために消費したとしましょう。資産に換えるか消費してしまうかで話は違ってきます。資産に変えた場合、それは残ります。しかし、価値は下がります。消費してしまったなら、お金はなくなります。短期的にしかお金は手元にありません。
 言いたいことがわかるでしょうか。短期的にお金を支給して消費させても、お金が手元には残らないので大きな意味はなく、資産に換えても価値が下がるだけ、貯蓄をしても、物価が上がれば金銭価値は下がるし、一向に市場は潤わない。短期的な政策は超長期的に見れば、あまりに小さい、小さすぎる政策でしかない。別に大金を長期的にばら撒けと言っているわけじゃないんです。根本的に違うような気がするんです。今何をしなければならないのか、何をすれば、正解なのか。その正解を誰か知っているんですか?知っているんだったら、なぜそれをしないのか、そして、その結果を出さないのか。結果が出るのはまだ先なのかもしれませんが、そんなことを期待した政策が今あるような気はしませんが・・・・・・
 要するに、わかっているのは、将来回収の見込みがあるあるいは、将来にとって確実に有意義な政策から手をつければ無駄な政策はないってことなんですよ。今が、今が・・・と言ってもどうにもできてないじゃないですか。
 極端な話をしましょう。ばらまきをするというのは、所得の再分配をしようということですよね。お金を持っている人から、もっていない人あるいは必要としている人へということですよね。確かに、これは必要な措置ですが、現在必要としている人と将来に渡って必要としている人は違うんですよ。将来にわたって必要な人に対して行うばらまきは現在必要としている人に対するばらまきよりは、緊急度で言えば、低いかもしれませんが、本当に必要かどうかで言えばこちらの方が確実に必要としているわけでし、その額もおそらく多額に上るわけです。
 将来のことなんて誰にもわかりません。将来所得が増えるかもしれない。あるいは、将来所得が減るかもしれない。世間に込められた期待というのは、前者であり、私たち若い世代が考えるのは後者であり、そこには絶対に越えられない壁がある・・・・・・・結局、今回のマニフェストにあがっているのも、こうすれば日本はよくなるという考えが全体にあるわけで、こうすれば確実に損をすることはないという考え方はないような気がする。でも、まだましだと思います・・・・・

世の中の色々なことを・・・その2

 前回と同じような話をしていこうと思います。

 なぜボランティアが流行るのか。それは当然、お金がかからないからです。ボランティアに頼る理由には、正確には二つの理由があると思います。ひとつは、お金がないから。もうひとつは、人がいないから。この二つです。
 前者はそのままで、お金がないからこそ、無賃金で働いてくれるボランティアを募集する。後者は、お金があっても、お金だけでは動かせない人を集めるなどの場合です。後者の具体例をあげると、学校等のPTA活動です。この後者には本当はもうひとつ特殊な場合があって、お金自体を集める場合です。お金を集める人をお金で雇うというのは、おかしいからです。
 私がなぜボランティアはする必要がないと思っているのかというと、ボランティアではお金が動かないからです。今一番、ボランティアに頼っている業界といえば、おそらく老人福祉でしょう。無賃金の人が介護をする、あるいはイベントの手伝いをする。世間では高い評価を得られる行動でしょう。しかし、よく考えてください。時間を対価に換えることなく、働くということは本来ありえないわけです。ボランティアをすることによって、お金を払わずに済んだ存在が必ずいるわけです。
 それは、もちろん行政です。行政が老人福祉の充実を謳う限り、これは行政の役割であるはずです。だから、老人福祉のボランティアをすることによって、行政がお金をかけずに済んでいるということです。これは、他の分野でもたいていの場合、同じで、田舎では消防は本職の消防団員に加えて、消防団という地域の住民によって構成されている団体でまかなわれています。これも行政がお金を持っていないから、そうやってボランティア同然でお願いしているわけです。
 つまり、行政がお金を持っていないから、ボランティアに頼ることになる。ある程度のことは仕方がないでしょう。広い土地に住民が広がっている場合、単純に本職の消防団員だけではどうあってもまかなえないのも事実です。しかし、極端にボランティアがすすむのはよくないのです。
 なぜか。ボランティアに時間を取られると、お金が動かずに、直接行政にお金が残る、つまり、一度も市場にお金が回らないからです。行政にお金が残ったまま配分されるということは、言わば社会主義的なんです。住民にお金を使う選択権がない。行政が決めた分野にしかお金が動きづらくなる。で、実際どこに使うかといえば、道路とか箱物とか、そんなところが大半です。ちょっと待てと。ボランティアのお金がなぜ道路に・・・・おかしいと思いませんか?ここが第一の理由です。ボランティアによって、浮いたお金は老人福祉に必ずあてなければおかしいんです。
 第二の理由が、市場にお金が回らないと、市場が活性化しないことです。極端な話をしましょう。ある地域で、極端にとある食料物資が足りなくなったとします。行政がそれは大変だと、それを調達してきて、市場価格で売るとする。それは非常にすばらしいことで、消費者にとってはありがたいことです。しかし、それは大きなお世話なんです。その地域で食料品を扱っている業者はそれをきっかけに新しいルートを確保できるかもしれないし、高額で売ることにより利益を上げることができるかもしれません。他にも、その物資がなくても生活できるということがわかるかもしれないし、何か別のもので代用できるかもしれないし、新しい発明が起こるかもしれない。そういうすべての可能性を消してしまうのです。当然、ただマイナスになっただけかもしれません。しかし、人類はそうやって成長してきたはずです。
 行政が市場に口をはさむ、結果的に市場にお金が回らないようにする。それは長期的にみて、大変なマイナスです。確かに、市場を調整することは必要です。しかし、関わりすぎるということはよくないのです。高速道路1000円で非常に私たちは助かりました。しかし、新幹線や船の業界は打撃を追っていますし、渋滞による問題も起こっている。これが現実です。行政が方向転換をあれやこれやとすると、市場は大変混乱するのです。
 ボランティアもこれに通じる部分があって、ボランティアの人が増えると、介護の仕事をする人、介護に携わる会社が利益を奪われる。本来なら、介護も一つの仕事であると認めなければならないのです。
 極端な話、極端なビジネスモデルをあげてみましょう。それは、介護は保険のようであってもいいはずなんです。現役時代に将来の介護費用等を積立ていき、老後になると一生面倒をみてもらえるというような。保険と同じで、早死にした人は、損をするかもしれません。しかし、長生きすれば得をする。どこかで聞いたことがありますね。そうです、年金です。年金はすでに、民間レベルで実現できていますし、保険会社のような法人であれば、このビジネスモデルを成り立たせることができるはずです。
 現状で介護のサービスを受けるためには、介護認定を受けて、その程度と受けたサービスに対して決められたがくの1割負担がかかります。残りは、国が負担しています。莫大な税金が投入されています。このシステム自体は非常によくできたものです。さきほどあげたビジネスモデルと同じです。ただ、問題は、どんなサービスの提供をしても同じ額しか請求できないという点です。優れたサービスを提供している介護施設、業者とそうでない業者が同じ額のお金を得ているわけです。これでは、発展していくはずがありません。民間が運営することで、消費者が選択することによって、提供する側は工夫を凝らして発展していくのです。
 以前よりは、利用する消費者に施設を選ぶという権利は保障されてきていますが、まだまだでしょう。根本的なところが変わらない限り、大きくは変わらないのです。
 しかし、今の制度が勝っている部分があります。それは、生活困窮者の場合です。資本主義だと、お金がない人が満足な生活を送ることが難しくなるのです。このバランスを調整することが課題ですが、絶対にあってはならないというビジネスモデルではないでしょう。現状で、お金を持っている人が高額の老人ホームに入っているということがあるわけですから。
 話が飛びました。すいません。話を戻します。といっても、ほとんど話したいことはすべて終わっていますが。まとめをしましょう。私は募金活動をしている人を見ていつも思うことがあります。募金活動をするなら、その時間働いて、そのお金をすべて募金にあてたらどうかと。その方が絶対に効率がいいです。ボランティアをするなら、その時間働いて、行政に寄付でもしたらどうですか。行政はそのちゃんと介護にそのお金を使って、介護労働者を一人でも多く雇うことができます。ちゃんとお金が回っていますよね?どうしてもボランティアをしたいなら、これが一番あるべき姿ではないのでしょうか。

冤罪、世の中のこと


 先日、水曜日だったかちかんの冤罪のドキュメンタリーをテレビで放送してました。なんかね、もうつらすぎて見てられなかったですよ。
 犯人とされる被告人が無罪を主張しているわけなんですが、目撃者や被害者の証言、状況等から有罪の判決が下りてしまう。確かに、本当にやっていたかもしれない。それを知っているのは、もはや被告人だけ。でも、無罪だったとしたら・・・・・
 だいたいの流れというか、冤罪の悲惨さというのは、おおよそ見当がつきます。理解しているかどうかではなくて、どういうことが起こるのかは考えれば、たいていの人にはわかります。ということもあって、今回注目したいのは、被害者がインタビューに答えていた場面です。
 被害者はインタビュー内で、その人の家族の状況や無罪を主張していることを知っていて、「私がこんなことをしていると思うと嫌です」と答えていました。この部分だけを切り取って流されていたので、会話の流れがわかりませんが、う〜んと考えさせられた。
 率直言うと、ちゃんと一度話してみればと思いました。確かに、被害者なわけで、犯人と会うのは怖いことかもしれないですけど・・・・というか、この被害者自身もこの結果に、納得がいっていないと思う。そんなに大事になるとは思ってもなかったでしょうし。罰というのは、犯罪をしたことをに対するものなので、被害者がどうとかそれとはまた別の話なわけですけど、ちょっと置いてけぼりにしすぎじゃないかなと思うんです。被害届けを取り下げれば、なかったことになるんじゃなかったかなと記憶していますので、まったく置いてけぼりというわけではないんでしょうが。でも、それではなかったことになってしまうので、被害者側の視点からすると、悔しいものです。
 被害者は、被害届けを出した後は、もう勝手に警察やら検察がガンガン押していってしまうことに疑問をもってはいないのかなと。人を殺した、殺人罪でガンガン押していく。でも、被害者やその家族が知りたいことはそれでわかるんですかね。本当にあの人が犯罪をしたのかどうか、どういう人だったのか、そこってマスコミじゃないですけど、意外と重要ですよ。被害者がこれからの人生を生きていくためには。
 なんかね、同じことの繰り返しをしているようで愚かな感じがします。裁判でこの犯罪にはこの罰です、で終わり。何を積み重ねているのかさっぱりわからない。被告はこういう主張で、こういう人物だから、被害者はこういう主張で、こういう人物だから・・・・・こういう間違いが起こる可能性もあるし、この主張は本当なのかどうか。そういう証拠以外の面もちゃんと積み重なっているんですかね。証拠を認定するかどうかとか、一回一回がまったく別のもののような気がしてしょうがない。確かに、先入観でものを見るのは駄目でしょうけど、間違いをチェックする場合は、逆に非常に有効ですよ。

 私は、日本の裁判ってあいまいだなと思うんですよ。証拠が完璧ならそれは確かにその通りの事実なのでしょう。でも、完璧になることってほとんどないですよ、神様じゃあるまいし。現行犯ですら、実際に犯行現場を見ない限り、完璧とは言えない。証拠によって、有罪とするなら、ありとあらゆる可能性が消えないといけない。それが消えないのに、何で有罪にできるんだろうと不思議で仕方がない。
 もうひとつ、日本の裁判をあいまいにしているのは、自白だと思うんです。自白が重視されすぎてる。本人がやったというんだから、やっているに違いないみたいな。多少のつじつまが合わなくても、被告人が犯罪を行うことができる可能性があれば、有罪ですみたいな・・・・
 いやいやいや、そんなにとある可能性をいいように捉えてもいいんですかと。疑わしきは被告人の利益にっていう精神でしょうと。無罪を主張しているんだから、無罪の可能性もいいように捉えてもいいでしょうに。自白がなかったら、証拠だ。証拠がなかったら自白だ。っていう馬鹿みたいな考え方があいまいにしてるんですよ。まずは、そこをしっかりと一本化して、どうあっても確かめられない、わからない可能性について、限界をちゃんとわきまえておくべきなんですよ。人はすべてを知る神ではないんですから。
 人が人を裁いている以上、人が人の操作をする以上、間違いはあるわけで、本当にしなければならないのは、間違いを起こさないことではなくて、間違いが起こったときどう対処するのか、どうやって間違いを改善していくかなんですよ。
 裁判員制度が始まって、裁判がこれまでのように絶対正しいみたいな雰囲気のままだと、社会はおかしくなりますよ。私はこう思う、だけどそれが絶対ではないし、間違えているなら、それは間違っていたと認め、改めて行こう、こういう視点がなければ、日本は終わりますよ。そして、今のままの制度では、私の意見はこうだ、そう決まったから絶対に正しいはずだっていう考え方をする人が増えて、柔軟な発想もできなくなる。間違いを認められなくなったら、人間駄目になりますよ。成長できないですよ。日本の国を動かしている官僚やら政治家が、そういう考え方だから、国も駄目になるし、成長もできないんですよ。私はそう思います。