作品の倫理観

 作品の倫理観というのは、デスノートが大きく話題になって色々と取りざたされましたし、それ以前にもあった問題でしょう。ちょっと覚えていませんが。何が問題なのかと言うと、それはくろうさん(くろうのだらオタ日記)の方で書かれていたことを引用させていただくと、
 ルルーシュの負う代償について

例えばシャーリー。彼女は、彼の行動からくる代償を代表するものだろう。しかし、彼女が代表する事で、物語的には他の多くの死が隠されてしまう。つまり、クラスメイトとの恋の遣り取りという、メインの視聴者になるであろうティーンが注目しがちな話題に全てを封じこめてしまっている。そして、ルルにしてみれば、恋人になったかもしれない女友達の喪失(それも死んでいない)だけにとどまっていて、視聴者はその詩的な結末に酔い、何処と無く安堵する。

 ルルーシュが成功しすぎていることの問題点

そして、ルルの行動は結局成功していくのだ。その全能感、爽快感たるや、実に心地よい。実際に自分を精神的に圧迫する存在をやりこめていくのだから、これほど痛快な事は無いだろう。やりこめたり利用したりする相手が、見た目からして無能で利己的な軍人だったりするのだから、視聴者も実に安心だ。もう、どんどん殺せッて感じ。

 全体を通して作品を見たときに残る印象ついて

ルルの行動に伴う「物語の快楽」があまりにも大きくなっており、その代償がほとんど皆無なのだ。これでは、最後にどんなにそれなりの負債の代償を用意したとしても、多くの視聴者に残る印象は快楽の方が強くなってしまうだろう。いやはや、なんとも良く出来たエンターティメントだ。

しかし、本当にこれで良いのか?

 倫理観について(考えるべきは影響力だ)

個人的な目的の為、多くの他人を死に追いやる事に疑問を持たない人間など単なる殺人鬼です。それでいて「デスノート」キラのほぼ無差別殺人に比べれば、ルルの英雄的な言動は疑問を感る事が少ないように作られている。視聴者はそれをそのまま英雄として信じてしまえそうなほどです。「利己的に他人を殺すことを是とするかのような作品」。そんな作品を見て何の疑問も持たずに育つ若者が作る未来の社会は、一体どんな社会になるのだろう。・・・そんな事を考える視点が倫理観なのではないでしょうか。

 これで、言いたい事の大半が言われているのですが。自分なりにもう少しまとめてみたいと思います。極端な言い方をすれば、デスノートが第一部で終わっていたらどうなったか、ライトがニアにも勝利していたらどうなったかと言えば、ありえない問いで答えは作れないです。それが倫理というものでしょう。しかし、成人向け漫画では、悲劇的な終わり方あるいは残酷無比な主人公が目的を成し遂げるという展開は割りとありがちです。それは分別のつく人間が読むであろうという想定の元から許された結果でしょう。
 コードギアスについて思うこと、私が思っていることをまず書いて、その後に詳しく考察していきたいと思います。
 単純に見てみたいんです。ルルーシュが走れるだけ突っ走る姿を爽快な物語としてみて見たい。ナナリーや復讐のために正義を建前にして活躍する様を見たいと思っているんですね。
 いや、わかっているんですよ。それが無理だって事は。ルルーシュが代償を負うのは、このまま物語が進むなら恐らく間違いないと思います。でも、そうではなくて私は完全勝利を収めるルルーシュが見たいと思っている。それを現状諌めているのが、学園の人間であったり、スザクであったり、ユフィであったりするわけですが、私は彼らを今のような立場の存在として扱うのは話に違和感を覚えて、嘘っぽく見えてどうにかして欲しいと思っています。作品を否定するようなそこまで極端に思っている人はいないと思いますが、その私が変だと思っている部分を安全弁として、作品としてうまく出来過ぎてしまっているというのはくろうさんの言われている通りだと思います。ギアスという無殺傷能力の使用についてもうまくできすぎている。ただ、ちょっと私は方向性が違うというか、スザクのような安全弁の使い方は不愉快で、そもそもどう見ても後付けか破綻しているスザクの思考の展開ぶりに違和感を覚えるし、それがいきなり解決してしまう前回の超展開はおかし・・・え〜、また長くなりそうなのでこの辺りで自重しますねww今回はそういう話ではないので。
 話を戻して、ルルーシュはその過程で人を助けることもしますが、人を殺すことに躊躇いもしません。あくまで一直線、その性格と物語にはどういう倫理が求められるのでしょうか。結果としてルルーシュが代償を負えばそれで済むのでしょうか。それで丸く納まるのが倫理観なのでしょうか。
 過程としての倫理観と言うのはやはりあるはずなんです。先のデスノートの例を挙げると、ライトは第一部でエルを殺すという目的を成し遂げている。しかし、第二部で殺されてしまいます。どこが問題なのかと言えば、その過程で成功しすぎている部分なんですね。最終的に捕まってしまうのならば、どんな過程を通ってもいいのかといえば、それはまったく間違いなわけです。倫理観とはそもそも結果にだけに求められるものではありませんし、また物語全体のみに求められるものでもありません。「人を殺した。」これだけの表現にさえ倫理的な問題が含まれているんです。
 今更、人を殺したと言う表現に倫理観も何もないだろうと思われるかもしれませんが、よく考えてみてください。本来その死んだ人にも物語があるわけです。そういった一人一人の物語が全て飛ばされて、大きな流れ、渦だけが表現されている。主人公の正義を建前とした利己的な目的で見えづらくなっている。
 要するに、物語の裏の話ですね。そこにだって倫理観は求められるはずです。また、スザクのような近しい存在が阻止をするという展開でルルーシュの非情になりきれない善の部分を示すような流れでそういった裏の話が濁されるのは倫理的に問題があるわけです。あるいは、ルルーシュが近しい存在をギアスという無殺傷能力だけで排除していく流れだけでその非情な部分が説明されていくことも倫理的には問題があるわけです。ルルーシュは冷酷で人の命を数字で見ている人間だったはずです。身近な人間だけを優遇するのは人なら当然のことですし、ルルーシュも同じですが、あまりにぼやけすぎている。と、この話は少し長くなるので割愛して。私はその小さな過程をわざわざ一つ一つ書かなければいけないと言っているわけではありません。問題はそこではなくもっと根本にあります。
 作り手が持つべき倫理観は作品内容に対してだけ負うべきものではなくて、その作品が持つ影響力まで考慮して負うべきものなんです。私が言いたい本当の核心は、作り手の気づかない悪意にあるんです。例えば、デスノートでキラは巧妙な手口で捜査の裏をかきます。やすやすと裏をかける存在であってしまう。ルルーシュはギアスという力と自らの才能をを巧に駆使して、他人を排除し成功を収めていく。そういう風に設定されたから、そういう存在なのですが、「作り手」はすごく簡単にそういう存在を生み出す。そこが問題なんです。私にしてもそうですが、そういった人間(ダークヒーロー)に対する憧れというのは少なからずあったりするんですね。かっこいいからwwデスノートの中でキラという存在が世の中に一部妄信的に受け入れられる存在であると表現しているのは、漫画を通り越して現実のことを示している。キラを肯定した人は自分達がキラと同じ視点で判断するべきではなく、ただの人、ラストのシーンの盲信者でしかないとどれだけはっきりと理解できていたのか
 妄想の中で自作小説の中であるいは無意識的な憧れの中で人々はそういう存在を生み出す恐れがある。それなりに年を取って社会で生活をしていれば分別がつくでしょうが、まだまだ精神が未発達な子らがそれを見る、読む、想像し、憧れる。都合よく作られた主人公の成功物語から一人歩きをして、個人の中に場所を作り出してしまわないでしょうか。自分も作り手になってしまっていると気づいているのでしょうか
 デスノートを見て、「一部で終わっていればとてもおもしろい作品だったのに・・・」と思う心の片隅で、自分ならばライトを勝利のまま終わらせていたと思う場所が自分の中に眠っている可能性は十分にある。悲劇的でかっこよく綺麗に写りすぎているヒーローであるルルーシュが他を排除して自己の目的を達して欲しいと望む。実際にそういった部分が恣意的に流されすぎる。それを見て満たされ、影響され、知らず知らず自分も作り手となってしまっている。そう感じている未成熟な彼らの行く先はどこにあるのか。倫理観は正常に働くのでしょうか?物語の一部を抜き出して一人歩きをさせる未熟な精神の先に、失敗するかもしれない、捕まるかもしれない、という結果だけの倫理観は付いてくるのでしょうか?自己の目的を正義を建前にして利己的に推し進めていくという思考を勘違いしてうけ取らないか?曖昧に濁してしまう作品作りを大げさに私は否定するつもりはありませんが(いや、十分しているか)、本当にターゲットを絞れているのか、そこが問題だと思います。
 (余談だが、超展開な種ガンダムは正直好きになれなかったが、友人が対立という同じ構図、その展開だけでいえばコードギアスより随分とましか。その辺が深夜と夕方の違いなのか。しかし、それでどれほどの規制効果があるのやら。しかしまぁ、あくまで見ていておもしろいのはコードギアスだ。作り手が色んな意味でうまいから。しかしスザクはなぁ。←しつこい。それでもデスノートにはかなわない。そもそもキラを悪のように描いている部分で根本的にコードギアスとは異なり、倫理的にはずっとデスノートのほうがしっかりと考えられている。ルルーシュはもっと冷酷で非情な存在であるべきだと私は常々思っている。)
 ちょっと深く考えすぎましたか。人は人と交流することによって、倫理観を学びます。私を含め日常生活を送る人間にとって二次元の世界は投影の世界です。そこで収まりきれる、それが多くの人間でしょうから、どこまで問題として取り上げるのかということがまた問題であったりする。難しいですね。
 最後に。
 くろうさんと似たような内容(いや、同じか)になってしまったことに自分の不甲斐なさを感じつつ、一言謝罪の意を送りたいと思います。最後まで読んでくださった方、お疲れ様でした。

 これで夜の時間はつぶれたなぁ。書くことをメモって日常生活にも支障あるし。明日は休みだが、ネギまが・・・・う〜ん・・・頑張ろう・・・