第14話「Theory of Everything」


 なぜ、もっと感動できないんだろう。理由がわからない。アニメだからだろうか?いや、AIRでは何度見ても号泣した。恥ずかしながら。まだ序盤だということで、盛り上げを最高潮にしていないからだろうか。いやいや、AIRでは、ミナギの別れのシーンでも泣けたしなぁ。もちろん、原作クラナドのことみルートのあの人形のシーンでもやはり号泣した。どこかに原因があるはず。
 
 ・ 原因その1

 AIRクラナドの違いというのが考えられる。AIRは瞬間的な力でもって、ぐいぐいと引っ張られ泣かせようとするのに対し、クラナドは時間をかけて物語りにのめり込ませて泣かせようとする。単純に感性に訴えかけるだけなのか、感情移入させようとするのかという違いとでも言えばいいか。あるいは、本を見てなくのと、歌や詩を読んで泣くのとの違い、と言えばいいか。
 それらの違いを考えてみても、完成度の高さで言えば、やはりクラナドであるが、泣けるかという点だけで考えれば、前者AIRだったりする。つまり、泣けるかどうかが完成度と大きく関連してはいないはずで、クラナドは物語の性質上、矢継ぎ早に展開が進行しじっくりと世界観に浸れず、一週間という間隔があいてしまうこともあり、アニメでは泣きにくいということが考えられる。

 ・ 原因その2

 演出が個人的に合わない。何度も言ってきたことなのですが、多少大げさかもしれないが、微妙に合わないような気がする。もっと単純明快な感じが好きです。AIRでの、音楽の挿入の仕方は神がかっていたと思います。もちろん、青空という名曲だから、という所為もあるんでしょうけど。
 それも合わせて、作品の違いによる演出の違いを私が受け入れられていないと言われてしまえば、それまでなんですが。
 一応具体的に言っておくと、カバンの中からぬいぐるみが出てくるシーン。すっぽりと楽にカバンの中にクマが収まっていたことにまずひっかかり、無音の状態と音楽の挿入が何となくずれているような感じがした。カバンが旅をしてきたシーンがいくつも流れ、多くの異なった言語の会話で演出されたのが、少し長く感じたというのもあるし、そもそも原作のように文字で示された方が印象的だったような気がする。その辺の文字による演出は、まだefの影響が残っているからかもしれないけれど、少なくとも、両親の手紙の文字は映像で見たかった。

 そういえば、京アニは文字使わないですよね。ポリシーがあるのかもしれん。いや、普通はあまり使わないんですけどね。でも、確かに文字には力がありますよ。21世紀になるまでは、テレビにテロップが出るのはニュースや見出し、題名くらいのものだったのに、いまや漫才のせりふまでテロップで出てます。それを嫌う人もいるでしょうが、確かに多くの人が認めているわけです。文字がアニメの世界に広まる日もそう遠くはないのかもしれません。そもそも、絵と文字は漫画の世界ですからね。テレビよりもずっと前から、先を行っていた訳なんですよ。

 話が脱線しすぎたorz

 え〜と、とにかく渚ルートでは号泣したいです。今回もうるうるとまではきたんですが、後一歩及ばず・・・・逆に中途半端な感じでどうにもいけませんww今後も期待しています。まだまだ長い道のりですから、焦らずいきましょう。
 次回は・・・・渚ルートと春原、芽衣ルートの同時進行かな?漸く、渚ルートですか。ということは、双子、智代ルートは後回しか、それとも・・・・・