世の中の幸福は決まった量しかないのか


 アニメの感想は、今日中にまた書くとして、その前に昨日友人と話したことについて少しだけ。

 中学の同級生と昨日会ってきたわけなんですが、誰々がどうしているという話になることが多い。その中で、特にいわゆる不幸な出来事にあった人もいたわけです。付き合っていて、妊娠がわかると男に逃げられた子や結婚して離婚したシングルマザーの子、会社をやめて、うつ病に近いような状態でバイトしかしていない子などなど。
 それをどうこういう話ではなくて、世の中の幸福は定められた量しかないのかという話題。

 私はそれを昨日はなしていて、少し違うと思った。幸せとは、相対的価値であるはずで、また誰しもが持ちえるものである、と思うのです。世の中の現状を踏まえると、それはまったく違っていて、幸福は無限にあるのだとは私には言い切れません。
 少し具体的な話をすると、3人のABCという人間がいたとする。それぞれが自分の価値基準で10の幸福量を持っているとする。AがBにとあるものをあげたとき、Aの基準ではそれは1にしかならないものであったが、Bにとっては3の価値に相当するものだったとき、全体では32の価値があることになる。つまり、個人の価値基準による場合、絶対量は増えている。そのBがCにそれをさらにゆずったとして、Bは3の価値を失い、Cは同様に3の幸福量を受け取るとする。ところが、Bは他人に物を譲るという行為に対して、幸福を感じたので1の幸福を得ることになったとすれば、全体で今度は33になる。さらに、CがAにそのものを譲るのだが、AはCに好意を寄せていたとすれば、Cは3の価値を失い、Aは少なくとも1以上の価値を得る。もとはAのものであった1にしか相当しないものが、人に移って、戻ってくると元の1以上の価値になる。
 こう考えると、幸福とは絶対的な価値に縛られる物ではないとはっきりとわかる。ただ、同じように、BがAのあるものを盗んだとして、Aにとっては3の価値があったものでも、盗んだBにとっては、1の価値しかないとしたとき、それだけで全体では28となるし、また盗まれたという行為によりAは3以上の幸福量を失うと考えられる。
 つまり、人が人である、人とのかかわりを持つ限り、幸福量は常に変動的であるという話。

 少し長い話になったけれど、私が本当に言いたいことは、誰もが個人の価値で幸福を持っているということ。そして、それを自分も含め、誰に使うかという決定権を持っているということ。例え、不幸のどん底にあったとしても、誰かを幸せにできないということはないと思うのである。幸せとは結局のところ、相対的なもので、100の幸福量を持っているように見える人でもその人の価値にすれば5でしかなかったりすることもある。
 世の中に募金という行為があふれているのは、自分にとっては低い価値でしかないものを他社に譲ることによって、得られる行為の対価としての幸福の方が大きいからだったりするのだろう。幸福は分け合うことによって絶対数を増大させる。けれど、致命的な問題は、個人の価値による幸福量が圧倒的に不足していること。少ないと言い、幸福を求めるがゆえに、奪い合うことになる。
 
 とまぁ、小難しい抽象的な話になってしまったわけですが、昨日のオチは、相手のオゴリということで・・・・・おいしくいただきましたwwもちろん、今度はこっちはおごりますけどね。