じゃあ、どんな姿勢でマスコミは臨むべきか

 散々、マスコミを否定してきましたが、じゃあどうすればいいの?というところまで考えておかないと、卑怯になってしまいますので、考えていくことにしましょう。

 ・どこに責任があるのかを考えない
 本当は考えないといけませんが、マスコミはすぐに話が横にそれてしまうので、それならいっそ責任追及をしない方がいいのではないかと思うのです。話が横にそれると言っても、様々です。例えば、今回の事件。社会に責任があるという主張、個人の問題だという主張、どちらも偏っていて正しくないでしょう。どちら共に問題があるという主張ですら、間違いである可能性があるのです。(何を言っているのかわからない人は上の記事を読んでください)
 別の例。子が親を殺した場合。家庭状況や子育てに問題がなかったのかどうかが特に追求される。家庭環境の崩壊が論じられる。これも結局、個人か社会かの問題であると置き換えられます。この場合は被害者が身内なので、個人的な問題に落ち着くことが多いですが、ある意味でこれはもっとも社会的とも言えます。なぜなら、親が社会的、個人的な問題を抱えると、それが子どもに起こる。その流れ、下流、下の立場にいる者に問題が起こるというのはまさに社会的ではないでしょうか。どこに責任を求めるのか。すべてが答えであり、また最初から答えはないのです。

 ・事実の羅列で十分か
 では、客観的な事件の概要のみを伝えていればいいかというと、そうではない。視聴者はプロではない。事件を自分で分析することは不可能に近いし、偏った見方をしてしまう、間違った解釈をしてしまう。もっとも、マスコミが間違えていると、話にならないんですが・・・だから、マスコミがもっとも力を入れなければならないのは、どういう基準で考えてれば良いのかを示すこと。
 個人としてどういう姿勢でいればよかったのか。決して、容疑者がどういう行動をして、どれがおかしいと言ってはいけない。ここがポイントです。マスコミがおかしいと偏見を持って言い切ってしまえば、それが正解になってしまうからです。
 社会がどうあるべきか。こっちは的確に悪い点を指摘して、改善策を考える。基本的に社会のシステムを良くする、景気をよくすることを主眼におく。犯罪を無くすという名目で策を考えると、それが後になって大きな枷になる場合があるので、少なくとも減らすという名目で考える。車の後部座席のシートベルトなんかは、事故が起こること前提で話が進んでいるので、実にいいものだと思う。ただ、わずらわしいと感じる人もいる。典型的な例でしょう。

 ・常に反対の意見を言い合う
 なぜこれができないのかが正直わかりません。ディベートです。本人がどう思っていたとしても、それぞれの立場に分かれて、議論するのです。そのために、コメンテイターがいるんじゃないのかなと思うんですね。特に作家の方。作家の方は、色々なものの見方ができるはずで、いろんな立場から発言できるはず、という認識から、その場にいるんじゃないかと思うんです。
 マスコミは、その番組としての見解をまとめる必要はない。どういった考え方が必要かを示すという意味で、ディベート形式のように、それぞれの立場にたって擁護すればいい。要するに、様々な立場にいると仮定して話をさせるのです。なぜ、そういったことができないのか、私にはわかりません。まぁ、ぐちゃぐちゃとしゃべりあっているだけなら、やめた方がいいですが、ある程度道筋があれば答えを出す必要はないんだから、できると思うんですけどね。さて。

 今はこれぐらいですか。また思いついたら、書きます。そうですね、マスコミに常に反対の意見を持つような気持ちで冷静にいられたら、一番いいのかもしれませんね。