八王子市無差別殺人事件

 また、悲惨な事件が起こってしまいました。
 いつ、どこで、どんな風に起こるのかわからず、被害者にしてみれば、もはや事故のような事件です。もちろん、そこには故意があるのかないのか、その大きな違いがあるわけですが、事件に遭遇するかどうかという状況だけを考えれば、事故のように外を歩けば危険がない場所はないという状況と同じなのです。この考え方も実はおかしな考え方で、比較するような話ではなくて、両方をプラスして考えるべきなんですよね。私たちは、事故と事件、その両方の危険に身をさらされているのです。
 確率的に言ってしまえば、それは非常に小さな数字です。普通の方が気にして外に出なければならないような警戒は必要ないでしょう。でも、やっぱり、事故や事件は起きて、毎年、何人もの方が亡くなられる。それは、社会システムからすると、リスクに含まれる死亡者数になるのでしょう。
 交通事故が起こるからといって、車の運転を禁止することはありません。飲酒やスピード違反などとにかくきつく取り締まることで、その代わりをしている。でも、人間ですから、何もなくても、気が抜けるときがある、そんなときにも事故は起こるのです。それは車という便利なものの副作用として、最初から内包されているとシステム的には見られる。もちろん、事故がなくなるように色々な方々が色々な方面から努力はしています。
 こういった事件が起こると、最近の社会情勢不安と結びつけて語られる。それは別にいい、事実そうだから。しかし、事件は個人のものだと、結局そこにオチを求める。そうしないと、被害者や社会が納得しないから。けれど、記者の方は実はわかっているのではないかと、私は最近思う。昔は起こらなかったのに、今は起こる。その違いは人の違いなんかでは決してなく、純然として社会の違いでしかない。水位が下がると新しく水面に顔を出す岩のように、社会が低迷すると、今まで見えなかった岩、事件を起こさなかった層が事件を起こすようになった、それだけの話なんじゃないかと。事件を起こしやすい状況にある人をいつの時代の社会も最初から内包している。それは間違いのない。だから、車の事故と同じような性質を持っているのではないかと。幾ら呼びかけても事故がなくならないように、いくら倫理を問うても、決して事件を無くすことはできない、そう実感されているのではないかと私は思う。
 どういった方向性の社会が望まれるのかといえば、自殺者が少ない世の中であれば、こういった事件も少なくなるとは思います。重要なのは、どん底にいる人だけが自殺をするのではないということの意味をよく考えることでしょう。