文学とライトノベルとギャルゲー その8


とにかく十回までは真面目に頑張ろうかと思っている次第であります。ふぅ。真面目と言っても、ただ理屈っぽいだけかも、という反論は重々承知の上ですので。
 さてさて、今回のテーマはギャルゲーではなく、エロゲーです。エロゲーとは、18歳以上を対象に作られたパソコンゲームのことです。ギャルゲーに含まれないエロゲーを今回は少しだけ色々と述べていきたいと思います。
 まず、エロゲーの名作の多くはコンシューマのゲームよりもおもしろいと私は感じています。その原因はまず一つに、コントローラーを使わないと言うことが上げられます。それはつまり、複雑な作業が必要とされないので、比較的容易にゲームを行えます。ついで、エロの要素があることです。いつまでたってもエロは男にとっては需要のあるもので、エロの要素があるだけで何となく満足してしまうのも事実です。しかし、やはり大きな要因はキャラの存在でしょう。この辺は以前少し話したことがありますので割愛します。
 というわけで、今回問題にするのは、ゲーム性と文章、ストーリーについてです。まず18禁であるということ。例えば、小説ではレイプされたと書いても問題はありませんし、近親相姦を強要されたと書いても問題はありません。誰もがその小説を手にとって読むことができます。しかし、何故それが許されているのかと言えば、文学であるからではなく、現実的ではないからです。もっとも、かつては禁書などのように、検閲され、発行を中止された文学作品もありますが、今では文学がエロに関して弾圧や検閲を受ける、何て話題はないことを考えると、技量が単純に足りていないのではないかと思われます。まぁ、ある人にとってはフランス書房を手に取ったほうがよっぽど文学的であるかもしれません。私も否定はしません。さて、その現実的でない描写が現実的になるのが18禁の世界です。エロゲーの中には特に近親相姦を扱ったものや痴漢、レイプ、を扱ったものまであります。それらを肯定するつもりは到底ありませんし、かなりレベルの低い駄作であると私は思っています。さて、小説の中で、なぜそう言った設定が必要となってくるのかといえば、悲劇的な事実が物語を深めてくれると思われているからではないでしょうか。そして、エロゲーの世界では、それらは現実的に描写されるのです。そのことが物語を深めているかどうかは別として、確実におもしろくしていると思います。
 さて、戦争を描くときにどうあっても付きまとうのが、敗者の扱い方です。現実の戦争でも、兵士は異常な性欲を持つと考えられています。死を感じた時、生物は生殖能力が高まるといいますが、その辺りが嘘かどうかはわかりません。ただ、興奮している事は間違いありません。彼らが村を襲い、女を見つけては犯した、というのは現実的にあった話です。もっと言えば、戦時中でなくとも、それなりの身分の人間はたやすく、強引に女と交わっていたというのがかつての常識です。そういった部分を抜きにして話を作り上げても、現実的でないからという理由以上に到底おもしろくなりようがありません。復讐をしようとしている女性がいるとすれば、彼女にどういった過去があるのか、コンシューマゲームであれば、8割以上が親や友人、恋人が殺されたという話しになってきますが、エロゲーではレイプされたという設定が十分考えられます。その他、性の問題は一様にエロの要素が含まれています。それらの話を書くことができるのは、学問を除き、自然と18禁の物語に限られてくるのです。そういった部分が実にうまく作用し、エロゲーはおもしろく感じるのだと思われます。
 ゲーム性について。極端な話ですが、かつてのエロゲーでは人と会話するという選択肢のほかに殺すという選択肢がありました。その選択をどう感じるかは人それぞれですが、それこそが現実の選択ではないでしょうか。私たちは日々の行動にいつしか制限を受けています。という話をしたからと言って、現実的に不満を持っているわけでもないし、殺すという選択肢を持てと言っているわけでもないので、勘違いしないように。要するに、そういった選択肢がでてくること、それが画期的で制限のない証拠だということです。その制限のなさ、それがゲーム性に含まれていること、それがエロゲーのおもしろさにつながります。選択肢の多さは懐の深さ、物語の広がり。18禁の世界、その広がりにこそがおもしろさがあるのではないでしょうか。
 話がまたあまりまとまりませんでしたが、今回はここまで。

 次回、18禁の世界の広がりと文学について考えたいと思います