文学とライトノベルとギャルゲー その7

 前回、どういった内容の小説が文学的な作品に向きやすいのかという話をしました。しかし、あくまで向き不向きの話をしただけノなので、絶対に不可能だということではありませんし、勝手に理解をしているだけなのでまったく間違ったことを私が述べているのかもしれません。しかし、あまり気にしても仕方がないので、やはり無視することにします。今回はどうしようかと考えて、前回の謎を謎のままにしておく、このことについてもう少し詳しく話を進めてみようかと思います。
 これは、いわば演出です。何故そんなことが可能だったのか、神がくれたプレゼントだとしてうまく話をまとめようとする、そう言った場合です。中には、すべてを明らかにされていないと気になってもやもやするという人もいるでしょう。しかし、こういった演出が認められていることも事実です。ただ、あまりに突拍子もないものには、やはり疑問符が浮かぶようです。例えば、難病で移植手術が必要なのだが、その適合者が数パーセントしかおらず、助からないといわれていたが、最後になってその相手が見つかった、というようなストーリーがあったとします。この場合、人によっては長々とその闘病生活を描かれ、最後には助かるという流れに感動し、話を受け入れる人がいる一方で、これまでの闘病生活を描いてきたのは、最後に死を魅せるためであるとして非難をする人もいるでしょう。ここで問題なのは、結末がどうであるのかではなく、本当にそんなことが起こり得るのかということです。助からないといわれていたのに助かったから感動が起こる。これは明らかに文学とは異なります。助からないものは助からないという方がより文学的であると思われます。では、なぜそういった事実があるはずなのに、奇跡が起こることが文学的となりえるのか。
 それが文学だからです。つまり、起こり得るはずのないことを、いかに何気なく起こしうるのか。そこに文学があるのです。仕組みをすべて仰々しくこうであると押し付けるのは、ただの事実を説明しているだけに過ぎません。どれだけ最後の結末に向けて、文学的に話を作ってきたかどうか、それがありえない結末を受け入れさせる要素ではないでしょうか。膨れ上がる物語が結末をあやふやにして食べてしまうといえばいいでしょうか。助からないといったことや苦しみを描き続けることはそれは一つの描き方かもしれませんが、それは文学的ではないでしょう。日常的なものをどれだけ大げさに描くことができるのか、そう言った描き方を主眼にしていれば、その誰かが助かるかどうかは本来の目的ではなく、死と向き合う人間が助かることでどういった変化となるのかという部分に目が行くのではないでしょうか。わからない部分というのは、作者によって目を逸らされた部分ということです。謎を謎のままにするとは、必要のない事を書かないこととも言えます。
 もしかすれば、こういった描き方が文学的に見えるというのは、ある程度のパターンとなってしまっているのかもしれません。ただ、安易に描けるものではないはずだし、それなりの力量が必要な者であるとは思われます。
 結論。謎を謎のままにしておくこと、それは演出であり、主眼の置き方で目を逸らされた部分が謎となって残ることがあるということです。つまり、謎を謎のままにしておくことができるのはある程度の条件が必要だということです。そうして作られた謎は物語の外に置かれながらも、謎として理解されないからこそ物語に深みを持たせているのではないでしょうか。
 ただ、映像に関しては、映像自体がわかりづらい物を含んでいるせいか、これらの演出を容易にしあげることができるように思われます。
 少し話がうまくまとめられませんでしたが、今回はこんなところで。