文学とライトノベルとギャルゲーその9

 前回のつづきです。選択肢の多さが文学的に見ればどう捉えられるのかについて考えてみましょう。
 登場人物の行動の選択肢の多さと作家の描写力の高さはまったく別の話なので、勘違いしないようにまず始めに断っておくことにします。
 作中の人間をどのように動かすかは作家の自由です。しかし、登場人物には性格が造られ、まるで作中の人物が実際に存在する人物のように扱うからこそ、物語はおもしろくなるわけです。それまでずっと誰にでも優しかった人間が、何の脈絡もなく次の瞬間にはただむかついたというだけで人を殴るような人間に変わってしまったならば、読み手はどのように感じるでしょうか。わけがわからず、もう少しは読み進めるかもしれませんが、すぐに一体この本を書いたのは誰だ?酷い作家だな、となるはずです。それは一重に、論理的な感情や性格形成の流れが作られていないからです。ある性格を人物に設定すれば、それに沿った行動に束縛されるのです。



では一体、どうすればその行動が束縛される登場人物を自由に動かせるのか。それはイベントを起こせばいいのです。誰か影響を与える人間を登場させるか、問題を振り掛ければいいわけです。そのイベントをこなすことにより、登場人物は性格を還るし、場合によっては本来やるはずのない行動を無理矢理させることすらできます。とまぁ、これは当たり前すぎる物語の基本的な成り立ちですが。
 さて、文学と言えば、これまでずっと私は日常の出来事をどれだけ大げさに表現できるのかということだと言ってきました。今回もこのラインに沿っていけば、物語の展開をあまり大きくしすぎないことが肝心です。ということは、予め設定した人格が物語を通じてさほど変化しないことになるわけで、行動もパターン化されてしまいます。要するに、勝負は本当に作家の表現力ということになります。
 では、前置きはここまでにして選択肢の多さがまったく文学的と言えないかといえば、どうでしょうか。あらかじめ行動力が旺盛な人間を主人公として設定したとします。それはもうそれだけで、話を書くのが難しくなります。余談ですが、文学的な作品を書く場合、内向的な人間を主人公にすることによって物語を広がりやすくできるので、そうなる場合が多いようです。その手のつけられない主人公は、同じ問題にぶつかってもあっと驚くような行動にでて解決してしまうかもしれないし、ちょっとしたことではまるでビクともしないのです。となれば、それは痛快劇のようにも思えます。その様子をうまく表現することも可能でしょうが、やはり面白みにかけるのではないでしょうか。
 結論を言えば、よく動く主人公は悩むよりも行動しますから、どうしても文学的な方向へ持ち込むためには、行動により失敗を経験させると言う方法が適当でしょう。それでも動く登場人物はガチガチに行動を束縛して、鬱憤をためさせるという方向にするとどうかと思います。
 前回のことを踏まえて、結論に行きます。多少誤解を受けるような文章になっているかと思うので、改めて言っておくと、表現上の問題と行動力の問題とを同じレベルで考えられません。18禁の世界を描くことは単純に行動力のプラスだとは言えません。まったく場面が異なる場合が多いからです。さてさて、どういった結論を持ってくればいいのか、ちょっとわからなくなってきましたので・・・・とにかく、エロの世界を含めて描くことにこそ現実的であり文学的な何かを見出すことができ。ゲーム性は娯楽としてあるだけで、あまり行動力の多さは文学的でない。ただ、何でもできる主人公はおもしろく、18禁の世界においてはさらに選択肢が増えることになり、それはゲームとして広がりのあるものができることにつながり、おもしろい!!以上、終わり。 はぁはあ。
 次回、過去の文学作品はエロかったような気がする、です。(予定)