文学とライトノベルとギャルゲーその10

普段ありえるようなただれた日常を描いた文学というのは意外と多く存在します。それも過去の著名作家、文学賞を創設しておられるような作家です。それらの作品は共通して、どこか鬱屈した雰囲気が終始漂います。何故そのようなことが起こるのかと言えば、かの作品は終始内向的な主人公が多く、流されるような状況に不満を抱いているからです。その辺りを知識の浅い自分には大したことも言えないのが目に見えていますのでこれ以上言うこともしませんし、調べればわかることですし。どうしてこういう作品が生まれたのか、時代というものなのでしょうか。
 という前書きはそこそこにしておいて、ならばこういった文学作品をお手本にすれば文学作品が書けるのではないか、ということを考えて見ましょう。


作風を真似たところで、究極的には誰にも文句を言われる筋合いはないと私は思います。この本を書くということのみに関してはですが。もちろん、設定や内容までまねてしまえば、それは盗作だ、ということにつながる恐れがありますのでいいとは思えません。しかし、言葉に限りがあり、日常に限りがあるわけですから、似ている状況や文章表現が生まれてしまうのは必然でしょう。ましてや、本を読むことによって私たちは知識を得ているのですから、同じになって当然なのです。
 全てを擁護するわけではありませんが、まったく新しいというためには、まったく新しい言語体系を使用して本を書かなければなりません。例えば、足という言葉の認識を私たちはそれぞれが違って考えています。足とは一体どこまでを指すのか。その言葉の曖昧さが生む違いというのは、ある意味で言語体系の違いに繫がるものです。踝を認識しない、足首を認識しない、ただ、かかとを含めたそれら一体を○○○と呼ぶと決めているというように。名称の認識ではなく、それらが顕著に現れるのは感情の表現でしょう。優しい、怖い、大きい、まぁ、その辺は英語で認識の違いを確認すればわかりますか。そういった言語体系の違いを持って、表された文章というのは、一風変わったものに感じるでしょう。英語の小説を読んだことがある方ならまぁ、多少はわかるかもしれませんが、私の場合まず日本語に頭の中で置き換えていましたから、意味があったのかどうか。
 話が横にずれてしまいましたが、問題はそうやって書き上げたとして、ライトノベルやギャルゲーが文学のようにできあがるのかということでしょう。
 へたれた主人公と言えば、君のぞの孝之です(そうなんです)孝之の特徴はひたすら流されるという事は、散々ネット上で言われ続けていることです。同じことをぐるぐると繰り返し考えて、決定的な行動を起こせずにずるずると時間や物語が流れていく。孝之の置かれた状況は特殊なものですが、まさしく彼は文学作品の主人公に適していました。かの作品が文学的であったのかというと、それはあくまでシナリオライターの問題ですが、私個人の感想としては、やや物足りなさがあったでしょう。その理由の一つとして、あまり大げさな表現がされていないからです。ノベル形式に合わせて書かれていれば、あるいは違ったかもしれません。しかし、そうなったとき、あれ以上のへたれた主人公が出来上がっていたのは間違いないでしょうが。西尾維新先生の戯言シリーズにおいて、語り部いーちゃんもまた内向的な性格をしています。そうした考える主人公というのが、どうやら現状ではライトノベルやギャルゲーにおける文学に繫がりやすいというのは考えられます。
 屁たれた流されやすい主人公というのは、思っている以上に存在していると思います。そうすることによって、何となく物語りに流れ込ませていけるからです。しかし、彼らが悩み続ける主人公かと言えばそれはまた別の話で、話の流れを追う上で必要な思考をすればよく、無駄に大げさに表現していく事はないというのが、多くの現状でしょう。
 話が長くなってきましたので、今日はこの辺りで一度終えます。無駄な話しばかりしていたような。基本的に文学作品を書くためには一人称でなければならないのは、容易に想像されるので深く考察はしませんが、それは非常に大事なことです。その辺はギャルゲーとしてはプラス要素かと思われます。先にあげた問題点、過去の作品を手本にして文学的な作品に仕上げることができるのか、やってやれない事はないというのが、やはり結論ではないかと思います。共通項が多数存在することもあり、受ける印象はまるで本来のライトノベルやギャルゲーのものとは異なるでしょうが、すでにそういった作品が存在している以上、読ませる引き込まれる作品はもっと多く作ることができるでしょう。ただ、これは次回のテーマにしますが、そうなったところでそれらの作品はおもしろいのか、ということが問題です。もう少し早くその点の両立を考えるべきだったな・・・・・もう遅いか。