文学とライトノベルとギャルゲー その1

これから、暇を見つけて書いていこうかと思っている。「おたくって・・・」そう簡単には馬鹿にはされたくないなぁと。プライドを守るために自己を擁護してみようという目的の元に書かれている。だから、可能な限り論理的に書くつもりだが、矛盾や破綻をしている恐れは十分ある。だが、気にするな。いくら妄想勝手理論だとしてもプライドは保たれる。そういう自己満足の元に書かれているので、あしからず。
 とにかく文学とは何かということがわからなければ話にならないので、まずはそこから。早速、独自理論が展開されるので気をつけろ(おい)
 文学とは「普通の人間が日常の出来事をどのように感じ、悩み、考えているのかを表現したもの」である。簡単に端的にいえばこうだと思う。極個人的なイメージだが、文学といわれて浮かぶ人間は大抵昭和初期の作家だ。なぜそんなイメージがついているのか、答えは小学の国語にある。国語の授業で文学としてそれらの作品を多く読んでいるからだろう。言い換えれば、社会がその次代の作家の多くを文学として認めているからこそ、教科書に多く掲載され、私たちが目にしているということだろう。文学の目的とは人間の心の動き、思考を文章から学ぶことであり、それが人間形成に必要だと思われるから、国語という時間を使い、文学を読ませているというわけだ。そうやってできあがった現在の文学のイメージは先に述べた通りである。
 だとすれば、現代の作家にありがちな不幸な主人公、破天荒な主人公を設定し、そこから始まる物語は純粋な意味では文学にはなりえない。○○賞(芥川、直木、など)というのがあって、それは色々な基準があるだろうが、優秀だとされるのは極僅かな人間の触れ合いの中で、どれだけ人間が成長できるかを描いた作品である可能性が高い。心の機微をどれだけおおげさに描けるかという問題だ。こんな風にいえば、うそ臭く、ちゃちに思えるが、案外的を射ていると思う。話を戻して、不幸な主人公が僅かに前向きになる場合はどうなのか。厳密に言えばノーだが、受賞などの経過を見ると受け入れられているようだ。ただ、それはやはり不幸であるがゆえに感情の上下が激しく、それは文学的というよりも現実的な描写でしかなく、おおげさに描けてはいないだろう。
 結論、文学は日常の中の心の機微、思考をどれだけ大げさに描けるかにつきる。つまり、これさえ満たせば、ライトノベルもギャルゲーも文学になりえるのだ・・・・・・と、もうお解かりだろうが、そもそもライトノベルはSFの要素が強く、非日常の中に身を置くことの楽しさを描いているものだ。先ほどの結論を覆すようなことを言うが、まったく日常でなければ文学とは言えないということではないだろう。非日常の中にも日常に繋がる出来事や身近なこと、そういったわかりやすさや穏やかさを持ち合わせていれば十分文学となりえる。しかし、それでもやはり私の思う文学とは隔たりがある。さて、どうやってこの溝を埋めようかww
 要は歩み寄りではないだろうか。そもそも小説はフィクションであり、それは言ってしまえばどれもが空想の世界だ。文学足りえる条件は日常の中の心の機微、思考をどれだけ大げさに描けるか、これだけだったはずだ。壮大なSFの世界観を作り出したにもかかわらず、ゆるやかな日常を追い続けた作品だっていくつもあるはずだ。それらの作品を読めば、恐らく文学を読んでいることになるのではないかと思う。ここで、勘違いしてはいけないのは、ほのぼのした作品は私の思う文学ではないということ。あくまで心の機微と思考、これが大事だということをお忘れなく。