文学とライトノベルとギャルゲー その2

前回の要点を上げると、文学とは普通の人間が日常の出来事にどれだけ心が動かされ、考えさせられるのかをおおげさに描くことだった。そして、ライトノベルがそれに近づくためには、例えSFの世界観であってもその基本的な骨子を崩さなければいいという考えがあった。
 さて、今日は文学にどれほどの意味があるのかという問題を考えてみようと思う。文学作品を読むことが、なぜライトノベルを読むことよりもえらいと思われるのか。単なる自意識過剰の僻みだとは思う。何を読むかは個人の勝手で、誰かに文句を言われる筋合いはないはずだ。だが、やはりそこには差はある。何もそれは別にライトノベルに限った話ではない。むしろ、出版される本の大半がただの娯楽だろう。では、私が感じている僻みはどこにあるのか。それはやはり、現実と仮想世界の違いにある。現実に生きる人間こそが大人であり、仮想世界に生きるのは子供であるという観念だ。夢を見るのは子どもだけと言い換えてもいい。恋愛と結婚の現実にしても同じことが言えるだろう。要するに、お前はまだまだ子どもだと言われているという強迫観念が自らを蔑んでいるのではないかと思う。
 結論、文学作品を読むことがえらいのではなく、ライトノベルを読まないことが大人であるというのが正しい認識だろう。しかし、ここで引き下がっては、自己を擁護するためにこの文章を書き始めた意味がない。どうにかして、粗を探していこうかと思う。と言っても、それは難しいことではない。ライトノベルを読むことでも、十分文学作品を読むのと同じ効果が得られると証明できればいいのだ。それは難しくても、文学をする事とはまた別の重要な効果があると証明すれば、どうやら自尊心は保たれそうである。これを結論にして、論理を展開していこうかと思う。改めて注意しておくが、結論ありきの独自論理の自己擁護なので、あまり真に受けないで欲しい。
 現在のライトノベルには、特徴的な部分がある。それは挿絵と会話だ。挿絵の存在する小説はライトノベル以外にもあるが、根本的なところでは、ライトノベルのものと言ってもいいだろう。そして、特徴的な会話。ライトノベルに登場するキャラたちの会話は特殊なものだ。娯楽小説では決してありえない。それは別にキャラの特殊性だけによるものではない。破天荒な主人公や風変わりな友人というのは100年近く前から使われているものだろう。ライトノベルの会話の特殊性はそこに漫才のようなボケと突っ込みの掛け合いが含まれているところにある。とはいえ、漫才のような掛け合いが生まれる原因は、特徴的な性格や言動を有しているが故だろう。それは漫画に繋がる部分がある。あるいは、漫画からライトノベルが派生したのかもしれない。漫才のような特徴的な掛け合いは本当にただの娯楽だといえよう。その部分は最も文学とかけ離れていることは認めなければならない。
 さて、以上のような特徴的な部分を持つライトノベルだが、その中で脳内補完するという表現がある。これは意外と重要な事実だ。しかし、所詮人間は経験したもの以外を発想することはできないので、あくまで補完される事実は想像の域を出ない。本当の意味で人は創造することはできないのだ。この検証はまたの機会に譲るが、自己の内にあるものから勝手に呼び覚ますもの、これはわずかながら文学に繋がる。文学とは大げさに表現されること、それは言ってみれば、自己の内で勝手に世界が広がり、心を満たすような感覚を持たせることに他ならない。つまり、文学を読むことの過程をもってして成そうとしていることは、うちに秘めたる豊かさの絶対量を増加させることである。ただ、新たな物を生み出して増やすのではなく、ただ増加させるという所は重要だ。対して、ライトノベルの脳内補完がもたらす結果は、あるものの応用、使いまわしである。これらの違いは決定的なものだろう。
 ただ、ある一点においては、文学とはまったく別で重要な働きをしている。そのポイントはやはり挿絵だ。挿絵がいつの文化であるのかわからないが、相当古いものだと考えられる。ライトノベルの挿絵はかわいらしい物が多く、キャラたちが動き回る様や表情の変化を掴むことを容易にさせる。それは先に述べたようにすでに蓄積された自己の物でしかないが、その発想の繋がりを強くするという効果がある。漫才のような掛け合いの中で生まれる親しみやすさや触れ合いを脳内でたやすく想像することは、深く物語の中へと引き込まれていくだろう。それらの相乗効果により、ライトノベルは文学では到達できない領域へと達する可能性がある。あくまで可能性があるだけの話で、全ての作品がそうであるとはやはり言えない。まだまだライトノベルの歴史は浅い。この辺の話は次回に譲ることにして・・・・そろそろいいかなぁ。ライトノベルは想像力の絶対量を増やすことはなくとも、想像をスピーディにする。これが暫定の結論で、今後の可能性はまだまだあるだろう。ちらっといえば、下地が築きやすく、文学よりもある意味では・・・・とか。まぁ、自分でも苦しいとはわかっているが、詳しくは次回というとこで、一応締めておくことにする。(ふぅ)