文学とライトノベルとギャルゲー その4 

 ギャルゲーについて今更、どうだとか説明するつもりはない。私がしたいのは、とにかく自己擁護である。どれだけ優れた娯楽であるのかという点をマイナス面を無視して、いい面だけを直視していこう(おい)
 ギャルゲーの特徴は音と映像と文章の合体にある。これは他のどの分野とも異なるだろう。この基本骨子に、エロが入ってきたり、立ち絵が入ってきたり、音声が入ってきたりする。場合によっては、ゲーム性が入ってくるがそれはまた別の話にする。
 さて、私は読み物としてのギャルゲー、所謂サウンドノベルを基本として話を進めることにする。この場合、最低限必要な要素は、BGMと背景のみだ。言ってしまえば、あらゆる小説にサウンドと背景を足しただけで十分成り立つ。今、こう書いて思い出したのが、「かまいたちの夜」だ。あれは、今上げたようなシステムではなかっただろうか。この形式が非常に優れた物だというのは、やはりどこかで誰かが解説しているので、私は結論のみ用いることにするが、文学と関連して少しだけ考えたい。例えば、文学的作品をサウンドノベル形式にした場合どう捉えるのかという問題だ。文学とは文章を学び、心を学び、想像力をつける。その過程で、背景を用いることやBGMを用いることは、マイナスになるのかプラスになるのか。検証しなければ結果はわからないほど、難しい問題だと思う。どこかですでに実験が成されている可能性は十分あるが、個人的な推察だと、一長一短と言う結果がでそうだ。ただ子どもと大人とでは大きく結果が異なるだろう。大人の場合、理性的な部分で期待以上の効果が得られるのではないだろうか。
 つまり、映画やドラマでシーンにあったBGMによって涙が誘われたりするが、あれは心ではなく頭で感じている部分が大きい。というのも、子どもが同じシーンを見てもあまり多くを感じないからだ。経験してきた物が多いために、音楽とシーンが感動や涙腺につながりやすくなっている。それはあくまで経験であり理性的な部分だ。今一度はっきりしておくが、心の絶対量の増加とは、経験したことがないものを経験することにあり、どこか理解できないような印象を受けさえするのではないだろうか。
 理解できていない場面で無理に音楽によって煽ることが解釈を妨げるということもあるだろう。しかし、私はやはり物語りに深く入り込むことに重きを置くので、日常のできごとであるということや馴れを理由に、やはり文学作品においてもサウンドノベル形式は優れているのだということにしたい。
 ただ、単純にコストの問題で小説が娯楽としてよく選ばれるということがある。「かまいたちの夜」という一冊の本を何千円と出して買う価値があるのかと言われれば、少なからず唸らざるをえない。
 因果関係はよく調査してみなければわからないが、サウンドノベルがギャルゲーである理由は少なからず、そのコストの問題にあるように思う。つまり、今で言うオタク分野には常にある程度の需要がある。パソコンの発達と共に、需要はさらに伸びている。今でこそ、エロ分野に浸りきっているサウンドノベル形式の作品だが、いずれどこかで転換点が来るだろう。紙媒体から電子媒体への以降、あるいはもっと先の話になるかもしれないが。と、そんな話は私にとってはどうでもいい。
 今日はこれぐらいで切り上げるとして、今回の結論。サウンドノベル形式は非常に優れている。ただ、様々なしがらみの中で停滞しているのだ。
 次回、ギャルゲーはやっぱりおもしろいをお送りします。