文学とライトノベルとギャルゲー その5  

 今回、私が主張したいのは、まるっきり駄目人間の話だ。わかってはいても止められないし、満たされてしまう。
 自分を高めることは必要であるし、学ぶことは大切だと思う。それが現実的なことであろうと、趣味であろうと。何をしていても、人間はそこから学び取る何かがあると言う人間もいるだろうが、それは間違いだと思う。学ぶ意識がなければ何をしていても身につかないし、学ぶ意思があっても、学ぶ内容が薄ければ効果はないに等しいし、学ぶ内容が劣悪であれば自身を貶めることさえある。そうわかってい流れも止められないのが人間である。おいしい物があれば食べたいと思い、太りたくはないが太ってしまう。これが典型ではないだろうか。
 この人間の業は、人が人類としてある大昔から存在する。思考という能力を身につけた人類は、他の種別の何倍もの速さで自らを好ましい状況に身を置くべく進化を遂げてきた。正に最強の能力だろう。如何にして留まることのない欲を押さえつけるのか。非常に難しい問題だ。現実的には、生活するためとプライド、この二つによって自分は成り立っているが、他の人がどうなのかわからない。あぁ、これはプライドではなくて、嘘、虚勢、というのか。ん〜、にしても、虚勢を張ってでも何とか押し留まっているのだ。と、その話はここまでにして、娯楽とは、気軽に楽しめる、気を張らない楽しみ、そう言った意味だと推測する。ずっと学び続ける必要はない。
 ギャルゲーはおもしろい。引き込まれる。所謂、年齢上や表現上の制限がないことも、その一端を担っているだろう。物語に引き込まれ、気にいっていたキャラが惨劇にあってしまったとき、自分はどれほどの怒りを感じたのかと思い出せば、恥ずかしくなるほどだ。子どもじみているとさえ思う。ただ、ドラマを見ても映画を見ても本を見ても、そんな風に感じたことはただの一度もないのもまた事実だ。現実では、単純な苛立ちは日々感じているが、それとはまた別の話だ。こうやって、線を自らが引いていることにも問題はあるのだろう。だが、やはり自分はこうして空想や仮想の世界に生きていると感じ思っている。いつまでこの虚勢が続くのかわからないが、いけるところまでいってやると決心している。何でも重く受け止めて、悪く考えすぎるのが良くない、オタクにはこういう傾向があるのかもしれない。自分はその典型だと思う。だとしても、おもしろいんだから。今となっては、それでいいじゃないか。
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