文学とライトノベルとギャルゲー その6 

 さて、今回のテーマは現実的にはありえない設定についてです。以前、どのような世界設定にことなろうとも、そこにある日常を書くことができれば、十分に文学足りえるという話をしました。それをもう少し詳しく考えて見たいと思います。
 ライトノベルといえば、SFや魔術、神界や魔界,霊界などありとあらゆる設定、世界が登場し、その幅はとても大きいわけです。ライトノベルに限らず、一般の小説や文学的小説であっても様々な世界設定があります。
 あまりに漠然としすぎていて何を基準とすればいいのか、それが問題です。基準を決めることはテーマの切り口を決めることであり、同じテーマを扱ったとしても、まったく掛かれることは異なると思います。様々な切り口から多角的にすべてを網羅し、勘案できればそれが最も優れているのでしょうが、そんなことは到底できるはずもないので、やはりまた個人的に決めてしまおうかと思います。
 まず、世界設定がまるで現実の世界と異なるもの、これが一番大きな区分だと思われます。例えば、未来の世界であったり、中世を基にした世界であったり。(第一分類)
 次いで、大きな区分は、現実の世界を元に、別の特殊な設定が割り込んでいるものでしょう。霊力、霊界やら魔力、魔法やらが出てきたり、よくわからない能力を帯びている場合です。身体能力が驚異的過ぎるスポーツもここに含めてもいいでしょう。ここまでは明確にライトノベルや漫画のSF世界でしょう。(第二分類)
 その次の区分がグレーゾーンで、程度によるのではないでしょうか。所謂超能力や宇宙人といった割と現実的なものが出てくる、基本はきっちりと現実の世界に準じたものです。ちょっとした奇跡なんてものもここに含めてもいいのではないでしょうか。(第三分類)
 残りを少し細かく分けていき、2つの要素で分化していけると思います。一つは、現実の世界とまったく同じだが、架空の設定。つまり、あるかもしれない秘密機関が現実的な武装を持ち、現実的な身体能力しか行使しない。まぁ、探偵が活躍するとか、米映画並のノリでしょうか。そして、二つ目は、現実的にはありえない確率論や人間性の話です。作られた話なので、何百万分の一の成功率であっても成功してしまいますし、間の良すぎる出来事が頻繁に起こります。また、現実にはありえない考えや思考を持った人間が登場するのもこの区分に含まれるでしょう。それは、単純に狂気的な犯罪者と言った場合だけでなく、美化されすぎた人間などもです。以上二つの要素を持たないものが、本当に現実的な話です。どこまでも、現実的に書かれたものです。ただ、それがノンフィクションかと言えば、別にそうである必要はないし、むしろノンフィクションというジャンルは、現実でもこれだけ不可思議なことが起こるのだと示した例であり、逆に日常とは離れているともいえます。
 以上の区分に大雑把に分けられます。ちょっとここで話がそれますが、どの区分の話が最も書きにくいのかあるいは理解されにくいのかを考えて見ましょう。一番理解されやすいのは、当然現実の世界です。もちろん、理由は現実的だからです。では、最も現実とはなれた世界が理解しにくいのかと言えば、一概にそうとは言えないでしょう。確かに、難解な世界設定は書きにくく理解しがたいものです。しかし、それらには書けば書くほど明確になるという当たり前の効果が反映されます。一方、現実を基にした架空の設定を持ち出してきた場合はどうかといえば、これが一番厄介な区分ではないかと思います。本来ならば、幽霊が出てくる、それだけでもう大混乱です。何故幽霊になれたのかという簡単な設定から、どういう原子的な構成をなし、どうやって物理法則を覆しているのかという難解な謎を生みます。なまじっか、現実的な世界観を作り出したがゆえに、そのギャップに苦しむのです。スポーツ漫画にしてもそうです。あまりに人間離れした身体能力は理解に苦しみます。そういうものだとして割り切れない部分に問題があり、書けば書くほど不明確になる恐れを含んでいるのです。
 さて、そろそろ簡易的な結論にしたいと思います。それぞれの分類が文学とどういった関係になるのかです。第一分類はよく適していると思います。あくまで力量次第ですが。第二分類、これはまったく適していません。日常生活と設定上のギャップがひどすぎるからです。これは漫画にありがちな設定で、あまり深く掘り下げることなくだらだらと絵だけで説明していけるからです。第3分類、これはある意味では適していると言えます。奇跡や不可思議な状態を不可思議なままにしておけるからです。現実的でありながら、未知のものを残しているところにこそ、この分類の特徴があります。残りの二つの要素について、架空の設定は特に問題はないでしょう。確率の要素に関しては、うまく扱う必要があります。何でもかんでも起こりえてしまうなら、そこにはもう可能性ではない別のものが関与してしまいます。要するに、見苦しくなるわけです。
 今日はここまで。