文学とライトノベルとギャルゲーその11

 宣言通り、今回から多少リニューアルして、気を抜きます。それはリニューアルしたと言っていいのかという突っ込みは、口にしてはいけないのが世の常だ。店舗縮小なんて今の時代ざらにあるぜ。(←自己擁護)
ライトノベルが文学的になっておもしろいのか。これを考察しましょう。え〜、おもしろくなると個人的には思います。一つは、非日常を当たり前のように日常として描くことにおもしろさがあるということです。
 少しはなしが飛びますが、ライトノベルの私が一番嫌っている部分がどこかといえば、よくわからない世界設定です。
 私の許容範囲:魔法云々は問題ありません。吸血鬼?むしろ必須ですよ?陰陽道?バッチコイ!!オーバーテクノロジー??えっと・・・魔法を使うなww(色んな意味で)霊??何だって?プラズマ現象の間違いでしょう。何でもいいから原子レベルから理論づけて説明して見せてくれww(酷い)
 このくらいです。具体的にどれがおかしいとかあまり言いたくないし、よく覚えていないのですが。バ●トで●ィ●ードとか。あれを読んだときの衝撃はすごかった。思わず「えっ?何これ。」と思って、読み返そうと思ったが、それも腹立たしいのでやめてそのままゴミとして捨ててしまいました。はい。カッとなってやった、後悔はしていない、です。霊はあまり信用できません。というか、さすがにひどいか?魔法は良くて霊は駄目という理由は、霊体が意思を持つということがどうしても考えられない。
 まぁそういう話は置いておいて、あまりややこしく設定する必要なんて別にないわけです。魔法と言えば、別のどこかで触れて私達はある程度の基礎知識を身につけているわけですから、むしろ極当たり前のようにライトノベルの中で語ってもいいとさえ思います。そうして、非日常を日常のように取り入れて小説を書くことでもう一歩進んだ小説というのができるのだと思います。

 もう少し詳しく触れると、魔法世界というのが仮にあったとします。そして、その世界に小説があるとする。すると、その小説の中には、当たり前のように魔法が出てくるわけです。「テレビをつけると、見たくも聞きたくもないような暗いニュースばかりを報じている。」という文章があったとして、テレビがない世界からすれば一体何のことなのかまるでわかりません。それは魔法がない私達の現実世界と同じことでしょう。
 どうでしょう、魔法使いものに限りませんが、ライトノベルの多くは非日常と日常のギャップにそのおもしろさがあるのではないでしょうか。ひょんなことから、異世界、異能の人間と出会う。そういうきっかけがあります。つまり、そういう前提がある以上、枷を背負ってしまうのです。当然あるものとして、それを描くこと。それを実績しているライトノベルとそれらのギャップを持った小説との最大の違いは、視点の違いです。あくまで日常は現在の世界である後者に対し、前者は非日常こそが日常なのです。そのギャップを描くこととただ日常を描くこと、それはまったく別のことですが、文学を取り入れていくためにどちらが有利であるのか、あるべき姿なのかと考えれば、非日常を日常として描くことにあるわけです。この辺は過去にも述べたような記憶があるかも?
 こうした当たり前のように非日常を日常として描いた作品も多く存在します。(今は、半々ぐらいか?)つまり、すでにある以上そのおもしろさは実証済みだ、ということです。(前も同じような結論の出し方をしていたな。意味あるのかどうかわからない文章だ。いや、自己擁護だろ?)ただ、問題はそこからさらにもう一歩進むことです。つまり、ただ世界観を楽しんでいるだけで終わってはいけないと言うことですね。

まぁ、それは次回でww